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Create Liberty

by inja369

夢を叶えるための自己改造プログラム② ~「自我」は「空」である~

メンタル

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前回の記事では、我々は社会的催眠によって本心を抑圧されていること、本心を偽ったまま人生を送ると睡眠中や死の直前には後悔や不満に襲われ苦しむこと、それらから脱却するためには仏教が役に立つということを説明した。

今回は社会的催眠から脱却するために、仏教の基本的な考え方を記述していく。

その「自分」は本物ですか?

読者の中には「自分を変えたい」。そう願うということは、「今の自分は駄目な奴だ」と思っているということだろう。

例えば、

・仕事ができない、駄目サラリーマン

・気弱で引っ込み思案な奴

・人付き合いが苦手な地味な人間

・モテない、魅力の無い人間

などなど…。

しかし、これは本当に自分を正しく見た姿なのだろうか?そして、それは本当に「ダメ」なのだろうか?

実は、これらの否定的な自己イメージは、本当の自分の姿ではない。また、他者から見た姿でさえない。全て、「自分から見た他者」という虚像が作り上げたものである。

「他人はこう思っているだろう」「社会はこう思っているだろう」という他者の意見を、自分の頭の中で勝手に作り上げ、それを真実だと思い込んでいるだけなのである。

例えば、自分のことを仕事のできない人間だと考えているとして、その根拠を上司によく叱られているからとする。しかし、違う上司のもとで働けば全く叱られることなく、「あれ?自分は意外に出来るやつかもしれない」と思うかもしれない。

また、叱られることが多かったとしても、それは自分が駄目だからではなく、見所のある部下だと思われていて、鍛えておけば大きく成長すると考えられているからかもしれない。とくに年配の人には、叱って伸ばすという考え方を持っている人が少なからずいるものだ。

また、仮に本当に仕事が出来なかったとしても、「ダメ社員」というレッテルを自分自身に貼り付けて責める行為には、全く意味が無い。仕事が出来るか否かはやるかやらないかという物理的要因で決まるのであり、精神的要因は関係ない。関係ないのであれば、自己否定は「やめて」しまい、堂々と開き直って「為せば成るのだ」と考えたほうがお得である。かえってそのほうが仕事が捗る。

このように、自己イメージは非常に曖昧であったり、いい加減であったり、持つ意味さえもなかったりする。これはなぜなのか?自我とはなぜこんなにも曖昧なのだろうか?

「自分」は無い!

これに対して釈迦はこう答えている。「自我なんてものはもともと存在しないからだ」と。

自我が存在しないとはどういうことだろうか。釈迦はこれを説明するために、「縁起」という考え方を用いた。

縁起とは、簡単に言ってしまえば、「存在は他との関係性によって定義される」ことを表した言葉である。これを自我に言い換えれば、「自我とは他との関係性によって定義される」ということになる。

具体的に説明しよう。例えば自己紹介するとき、あなたは自分が何者かを説明するために、名前を名乗り、親を紹介し、出身地を言い、出身校を言い、勤めている会社と肩書きを伝える。自分という存在を説明するために、自分以外のものを列挙する必要がある。

しかし、自分以外のものに言及せずに自分を説明せよと言われても、困ってしまうだろう。もし自分の名前が違ったとしても、自分は自分である。名前は自分ではない。親が違っても、出身地が違っても、職場が違っても、自分は自分である。

もし、今とは違う姿に変身してしまっても、記憶が綺麗さっぱりなくなってしまっても、自分が存在するという意識はあるので、自分は自分である。身体も記憶も自分ではない。

しかし、「じゃああなたそのものはどこにあるの?取り出して見せてよ」と言われても、答えに窮するだろう。脳を取り出して見せたとしてもそれはただの脳だし、MRIで脳の活動状態を見せても、それは脳内の現象に過ぎないし、まさか霊魂の存在を説くわけにもいかない。

このことから、自分とは他の存在によって定義される概念であることがわかる。自我とは、他の存在との関係性、すなわち縁起によって成り立っているのである。

定義によって存在が確認できるのだから、自我は「ある」とも言えるし「ない」とも言える。このように、「ある」「ない」どっちとも言えるものを釈迦は「空(くう)」と呼んだ。自我は「空」なのである。

「自我」を自分で組み換えよう

自我は空であると言ってしまうと、まるで自分が空虚な存在であるかのように思えてしまうかもしれない。事実、それに耐えられない人々が霊魂を信じたりするようになったのだが、自我が空であることは役に立つ。

自我が他との関係性によって成り立つということを理解すると、「じゃあ自分を何と関係付けようか」「自分をどう定義しようか」という発想が生まれてくる。今まで他者や社会に定義されてきた自我を、自分で定義しようというマインドを持つことができる。この発想を以ってすれば、自己イメージを書き換えることは容易くなるのだ。

釈迦の「自我は空であり、縁起によって成り立っている」という主張は、我々にとって救いとなる。いかに社会が催眠を施して自我を強制してきても、それをかわし、自分という存在を創造的に構築することができるようになる。

次回は、どのように自我を組み替えればよいのか、具体的に述べていく。