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by inja369

会社の飲み会が強制参加である理由

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新入社員にとって過酷なイベントの一つが、「会社での飲み会」ではないだろうか。日本企業には、上司から飲みに誘われた場合は断ってはならず、半ば強制的に参加しなければならないという不文律がある。

多くの若者にとって、強制的に参加させられる飲み会はストレスのもとになっている。せっかく仕事が終わっても帰ることができず、疲労を回復させることができない代わりに、好きでもない上司を接待し、アルコールを摂取するという、非生産的な活動を強いられるからだ。なぜ会社はこのような無駄なことを強制するのだろうか。

その答えが、日本社会に横たわる「世間」という概念だ。この概念は、歴史学者の阿部謹也氏や、放送作家の鴻上尚史氏が詳しく説明している。今回は「世間」という概念から、会社の飲み会が強制参加である理由を説明しようと思う。

阿部謹也 - Wikipedia

鴻上尚史 - Wikipedia

「世間」とは何か?

日本人はよく「そんなことは世間が許さない」と言う。その一方で、「社会が許さない」とは言わない。「世間」という言葉は使うが、「社会」という言葉はあまり使わない。これは、もともと「社会」(society)という概念が日本には存在せず、代わりに「世間」という概念があったからだ。

では、「世間」とはなんだろうか。鴻上尚史氏は著書「空気」と「世間」 (講談社現代新書)の中で、阿部謹也氏の考えをこう要約している。

阿部さんは、建前としての「社会」と本音としての「世間」が日本に生まれたとします。

(中略)日本の個人は、「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本に存在しないのです。そして、もちろん、独立した「個人」が構成する「社会」なんてものも、日本にはないんだというのです。

建前としての「社会」と、本音としての「世間」。日本人はこの二つを使い分けているのだという。

「本音」と「建前」:使い分けの例

では、日本人はどのように「社会」と「世間」を使い分けるのだろうか。それがよく説明してくれる代表例が、電車の中で化粧をする女性である。

電車の中で化粧をする女性は、一緒に電車に乗っている乗客に対しては「化粧をした自分の姿を見せなくていい」という考えを持っている。化粧をした顔は会社の同僚や上司にだけ見せればいいのである。つまり、電車の中では「本音」の自分を見せているのである。

逆に、会社の中では化粧をした姿、すなわち「建前」の姿をすることになる。「社会」の中では「本音」を見せてはいけないという考えが存在するのである。

このように日本人は、知ってか知らずか、「社会」の中の自分と「世間」の中の自分を使い分けている。日本人にとって自分が生きている世界は「世間」であり、「社会」の出来事や利害はまるで他人事なのである。

「属性」ではなく「場」を重視する「世間」

この「世間」というものは、いかにして人と人を結びつけようとするのだろうか。その答えが、飲み会が強制参加である理由のヒントとなっている。

集団を結びつける条件には2つある。1つは特定の「属性」を共有していること、もう1つは「場」を共有していることである。

「属性」とは、例えば趣味や特技、持っている技能や特徴のことである。例を挙げるならば、MENSA(メンサ)という、高いIQを持つことを入会の条件としている国際グループは、「属性」によって繋がっている集団だと言える。MENSA会員は、講義、ミーティングなど、高い知能が要求される交流を行っている。彼らは「高いIQ」という「属性」を共有することによって結びついているのだ。

mensa.jp

一方で「場」とは、例えば地域や会社、学校などの、人間が集団を作ることによって形成された「枠」である。それに収まる為ならば、ある程度の「属性」の差異は無視される。

例えばある人が、他者に対して自分が何者であるかを紹介する時に、「自分は新聞記者である」とは言わず、「自分はA社の者である」と言えば、その人は「属性」よりも「場」を意識したということになる。

日本人は「属性」よりも「場」を重視する傾向にある。日本人の意識の中では、自分が所属する「場」というものが、単なる自分の現在地以上の意味を帯びるのである。そして、この「場」の繋がりは、「同じ時間を共有しただけ強化される」という特性を持っている。

共通の時間認識

歴史学者の阿部謹也氏は、「世間」の中に生きる人々の特徴に「共通の時間認識」を挙げている。同じ日付、同じ時間を過ごしているという認識が、人間関係を強化するのだという。

例えばTwitterなどのSNSで、「いま自分が何をしているか」「どこにいるのか」という情報をリアルタイムで共有する行為は、自分と感情的に繋がっている人々、つまり「世間」の人々に自分を主張する行為だ。この行為を繰り返すことによって、人々は繋がりを強化していく。一方で、「世間」の外にいる人間、すなわち「社会」の人間にとっては、個人的な情報を発信する行為は全く無意味なものとなる。この違いを繰り返し認識することも、「世間」の繋がりを強化する要因の一つである。

時間を共有するための飲み会

企業という「場」の中の「共通の時間認識」を強化するために開かれるのが飲み会である。仕事が終わった後に、プライベートの時間を犠牲にしてまで、感情的な繋がりを強化したいという動機があるのである。長い時間一緒にいればいるほど自分たちの関係は深まるはずであるという信仰のもと、こうしたことが行われるのである。同じ鍋を突き、愚痴を吐き合い、酒を酌み交わした記憶を共有することが、彼らの関係の根拠となるのである。

「場」への帰属意識を基盤とする集団は、成員の持つ「属性」の異質さを乗り越えるために、集団意識を常に高揚しなければならない。その試みは多分に情に訴えるものであり、人間同士の、濃く、そして長い接触を繰り返すものである。

乗り越えた苦労の数や幸福を分かち合った期間を、彼らは財産と考える。それは「時間」というものを対価にして獲得される価値である。これは将来において「思い出話」として再び消費することが可能なものである。そしてこの「思い出話」=「記憶」を共有することで、ますます関係を強化していくのである。

この財産を、あると考えるか、無いと考えるか、どれほどの価値を見出すか。それが飲み会に参加する意義を感じられるか否かを決めるのではないだろうか。

個人的見解

僕はこの財産に、あまり価値を見出さない。「時は金なり」という言葉があるが、時間があれば将来へのあらゆる投資活動が可能となる。時間があれば本を読んで自分に投資したいし、ブログに書く文章を考えたいし、そうした活動をするための体力を確保するために寝ることも出来る。思い出作りに全く価値が無いというわけではないが、僕にとっての優先順位は低い。

特定の集団への帰属意識を高めることにも、あまり価値があるとは思えないし、そうした情はときに足枷となるとも思っている。もちろん、所属した集団に全く愛着が湧かないわけでもなく、お世話になった人たちに感謝の念を抱かないわけではない。しかし、それはあくまで所属の結果である。どこかの集団に属するのは恩恵があるからであり、決して所属すること自体を目的に所属することは無い。所属は手段の域を出ない。

とは言うものの、集団への強い帰属意識を持つ人が減るだろうことは散々言われてきたし、実際に減っている。その理由は、グローバリゼーション、都市化、終身雇用制度の崩壊などによる人間社会の流動化である。この現象は確実に進んでいる。この流れに逆行しようと右傾化・保守化する人々が現れているのも象徴的である。

飲み会が日本企業の文化としてこれからも残り続けるだろうとは考えているが、所属意識を高める意義が低くなっている中で、強制的に参加させてでも行う意味が果たしてあるのかどうか、僕は疑問に思っている。

まとめ

  • 日本人にとって「世間」は本音の世界、「社会」は建前の世界
  • 「世間」は場を重視する
  • 「世間」は「共通の時間認識」によって強化される
  • 飲み会は「共通の時間認識」を強化するために開かれる

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