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by inja369

「バガボンド」と資本主義の精神:本当の強さとは何か

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今回は「スラムダンク」の作者として有名な漫画家、井上雄彦先生が現在連載されている漫画「バガボンド」について書きたい。「バガボンド(vagabond)」とは、「放浪者」「流浪者」という意味である。内容は、主人公・宮本武蔵が最強の剣豪としての称号「天下無双」となることを目指して旅し、様々な強敵と出会い、成長していく物語となっている。

「バガボンド」は、資本主義社会を生きていくうえで、僕たちがどのように社会と向き合えばいいかを語ってくれているような気がしたので、本記事ではそれについて語りたい。

ネタバレ満載となっているので、未読の方は注意してほしい。

最初は少年漫画らしい展開

バガボンド(1)(モーニングKC)

まず物語の内容を説明する。

宮本武蔵は、人々から「天下無双」と呼ばれるほどの剣豪・新免無二斎(しんめんむにさい)を父に持って生まれた。無二斎は剣のみに生きる男で、人情に欠けた人物であった。息子の武蔵さえも「自分の最強の座を脅かす存在」と認識し、愛情を注がなかった。母親も武蔵を疎ましく思い、拒絶した。両親の愛情に恵まれなかった武蔵は、一人でも生きていける強い男になると決意し、「天下無双」を目指すようになる。

剣豪・無二斎の息子ともあって、武蔵の剣の才能は常人離れしていた。その剛腕を振るい、野獣のような闘争心をみなぎらせながら、旅先で出会う様々な強者と戦い、倒していく。何度か敗北しつつも、必ずリベンジし、腕を上げては勝利する。このように、物語の最初は少年漫画のように「強い奴を倒し、成長していく」というシンプルな構成になっている。

天下無双に近づくにつれ、武蔵に変化が

武蔵は、剣の腕を上げると同時に、精神面でも成長していく。槍の達人「宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)」、将軍家の剣術指南役「柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)」などの武の達人との出会いを通して、「強さとは何か」を問い、自分自身を見つめ直していく。荒くれ者だった武蔵はだんだんと落ち着きを持った青年に成長していく。

武蔵がどのような変化を辿るのかを示す為に、作中のセリフをいくつか引用しながら説明してみたい。

(図体は)大物のようじゃが、肝は小せえなあ

父親の影響もあって、少年時代の武蔵は獣のような荒い性格だった。物語の最初、武蔵は生まれ故郷の村で、自分を「悪鬼」と蔑む村人を相手に暴れ回った。その時に、流浪の僧・沢庵(たくあん)が武蔵を評してこう言ったのだ。両親に拒絶されて育った武蔵は、他者を受け入れる心が育たず、心の底で人に怯えるようになってしまった。その弱さを隠す為に、剣を振るい、「殺す」と言いながら暴れ回ることをしているのだと見透かされたのだ。

殺すのみの、修羅のごとき人生が本望か、武蔵。違うよ。お前はそんなふうにはできていない。(沢庵)

本当か、沢庵。生きていいのか。(武蔵)

「お前は悪鬼などではない」と、武蔵の存在を受け入れてくれた沢庵。これをきっかけに、武蔵は生まれ故郷を飛び出し、天下無双を目指す旅に出ることになる。

お前自身の殺気が、出会う者すべてを敵にする

槍の達人、宝蔵院胤栄と出会ったときに言われた言葉。胤栄はただ鍬で畑を耕していただけのだが、武蔵はその鍬で自分を斬りつけてくるような殺気を胤栄から感じ取った。しかしその殺気は、武蔵の放つ殺気が武蔵自身に跳ね返ってきたものだった。武蔵の心に「敵意」「殺気」「我執」「闘争心」が根深く存在していることの表れと言える。

どこにも心を留めず、見るともなく全体を見る。

どうやらそれが「見る」ということだ。

無頼の僧・沢庵の言葉。武蔵の持つ、敵意・恐怖・心の囚われが武蔵自身を弱くしているのだと言う。武蔵はこの言葉を聞き、自分の中のあらゆる面を認め、それらに囚われない柔軟な精神を確立していく。やがて、槍の達人、宝蔵院胤栄の後を継ぐ宝蔵院胤舜(いんしゅん)を倒し、死の恐怖を克服することに成功する。

天下無双とは、ただの言葉じゃ

「天下無双」と呼ばれる柳生石舟斎のもとに乗り込んだ武蔵が、石舟斎から聞いた言葉。まだこのとき武蔵は、石舟斎のこの言葉を完全には理解できない。しかし、このことをきっかけに、果てしなく強さを追い求めていくことの意味に疑問を持つようになる。物語の転換となる、重要なセリフだ。

武蔵の中の「強さ」と「優しさ」

バガボンド(32) (モーニング KC)

天下無双と名付けた陽炎――。ただそれだけのことに気付くのに、二十二年の歳月を費やしました。

吉岡道場の剣士たちを相手に怒涛の70人斬りを成し遂げ、日本中にその名を轟かせ、「天下無双」の名を獲得した武蔵だったが、殺し合いの螺旋に居続けることに虚しさを感じ始め、自分の追っていたものはただの虚像に過ぎなかったと悟った。これ以降、武蔵は自分を見つめ直し、「強さとは何か」に対する新しい答えを求めていく。

剣に生きると決めたのなら、正しいかどうかなどどうでもいい。感じるべきは楽しいかどうかだ。

最強の剣聖・伊東一刀斎(いとういっとうさい)が武蔵と対峙したときに放ったセリフ。かつての武蔵以上に獰猛に強さを求める一刀斎の哲学は、単純にして明快。武蔵は、過去の自分が相手を斬り殺すときに、「楽しい」と確かに感じていたことを自覚し、その罪深さに涙する。このことは武蔵を、ますます戦いの世界から遠ざけさせることになる。

弱い者のことなどわからんだろう?

旅で行き着いた貧しい集落に住む百姓・秀作(しゅうさく)に言われた言葉。ただ一人、無頼に生きてきた武蔵の目に映っているのは「己」と「強い者」のみであり、「弱き者」を顧みることなどしないだろう?と突き付けたのだ。その証拠に、武蔵は意図せず蛙を踏みつぶしてしまっていたことに気付く。稲という、か弱く繊細なものに向き合ってきた秀作からの言葉は、武蔵に重く響いたのだった。

どこであれ、それがいつであれ、死ぬことは決められている。

そう、そして?

残された時間がある。どうあるかは自由。

どうありたいのだ?

強く――

俺が俺らしく――手足がなくても残るはず。それは

俺は、何だ

優しいんだよ、あんたは

秀作の村が飢饉によって全滅しそうになったとき、武蔵は小倉藩細川家家老・長岡のもとに助けを乞いに向かう。上記の文は、これまでの旅で武蔵が受け取った言葉が走馬灯のように思い出される中、武蔵が悟ったものである。

それまで人に頼ったり、誰かのために頭を下げたりすることなど絶対にしなかった武蔵は、秀作と出会い、農耕を経験し、村人と共に生きる道を歩んできたことによって、自分とは何なのかを理解したのだった。

「バガボンド」と資本主義の精神

ここまで武蔵の成長の過程をざっと眺めてきたが、この作品は「強さとは何か」を考える際の重要な示唆を与えてくれていると思う。

個人的には、資本主義世界での生き方を考えさせられた。資本主義は、資本を蓄積して、さらに増やしていくことを目的とするものだ。資本を集める能力は、資本主義世界における「強さ」とも言い替えることができるだろう。

今の世界では、人間は市場価値で量られる。能力があり、金を集める能力が高い人間ほど、多くの資本を投入される機会にあずかり、高い給与を獲得できる。給与が高かったり、社会的地位が高かったりすれば人から尊敬を獲得できる。ゆえに、経済的「成功」を夢見て自分を磨き続けることを生きがいとし、「楽しんで」いる人もいるだろう。形は違えど、その本質はバガボンドのような「戦いの世界」なのかもしれない。

当然、誰もがこのような戦いの世界を望んでいるわけではない。電通の新入社員が過労死自殺をした件が話題だが、誰もがビジネスを心から楽しみ、スポーツのごとく働き続けることはできないのである。

社会学者マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』では、資本主義の精神はプロテスタントの信仰心から発生したと説かれているが、一方で、宗教的精神が抜け落ちた純粋な資本主義は、スポーツの様相を呈することもあるとも書かれている。

営利活動がもっとも自由に解放されている場所であるアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。

ときにはスポーツの性格を帯びていることも、稀ではないのである。

このことは、現代社会にも全く当てはまることではないだろうか。資本主義社会の中で、スポーツのように営利を求めるのか、あるいは生活に必要な収入だけで満足して別の幸せを求めるのか、社会全体で同じ道を選ぶことは不可能だろうが、少なくとも上手く住み分けられるようにならないと、今後も過労死のような問題はなくならないのではないだろうか。

どこまでも自分の市場価値を高め、利益を追求し、資本を蓄積していく…。その戦いの果てには果たして何があるのか。そのことを考えなければ、この社会の中で自分がいかに生きていくのかを定めることはできない。仮に「戦いの世界」から距離を置く生き方を選び、それを咎められたとしても、それはただ人生に求めているものが違っただけであるから、何も気にする必要はないのだ。

現実的に、資本主義の競争社会に背を向けて生きることは、現状では難しい。戦わぬ道を選ぼうとしても、「現実を見ろ」と言われて終わりである。しかし、例えばベーシック・インカムが導入されて、無理に働かなくても最低限の生活が保障されるようになれば、人々の考え方も変わるのではないだろうか。制度が変われば、人の考え方など簡単に変わるものだ。

多様な生き方を受容できる社会がいつか実現されることを、仄かに期待している。