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by inja369

淡白な人間になったほうが楽だ

オピニオン

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荘子の『山木篇』には「君子の交わりは淡きこと水の如く、 小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し」と書かれている。醴とは甘い酒のことである。つまらない人間の人付き合いはベタベタしていて鬱陶しいと言っているのである。

僕は自分のことを君子(立派な人)だとは思っていないが、この考え方には共感する。僕は人間関係に対してあまり大きな価値を感じてはいない。昔からそうだったが、僕は人付き合いに対して淡白なのだ。なぜなら、それが楽であり、自分はそうあるべきだと思っているからである。

淡白な関係に憧れる

人付き合いが好きで、特に目的がなくてもただ集まるのが楽しいと感じる人がいる。僕は彼らのことを小人だとは思わないが、馬が合わないだろうなとは思う。僕は、何かしらの必然性がなければ、人と会ったり、話したりしたいとはあまり思わない。例えば一緒に仕事をするからとか、情報交換をするからとか。何か目的があって、人と会う動機が発生するのである。

絆を感じないのではない。人に興味がないわけでもない。ただ、必要以上の接触に意味を感じないのである。僕には趣味を同じくする友人が何人かいるが、彼らとの絆を感じはしても、頻繁に会ったり、話したりすることはない。SNS上でお互いを見かけることはあっても、特に目的がなければ接触をしないのである。

文芸評論家の小林秀雄は、同じく文芸評論家である河上徹太郎との対談において、「僕たちはお互いの葬式には出ないだろうな」と言っている。河上も同意している。わざわざそんなところに出ていっても、もう相手はいない。思想上で交わっていれば十分だ、と言っているのである。

僕はこの会話を聞いたとき、「いいなぁ」と思った。このくらい淡白なほうが、お互い気楽でいい。お中元や義理チョコの類いの、「贈らなかったら世間的に悪い」という気遣いに縛られる必要もない。そういうものは多分、「何も渡されなかったからあの人は自分のことを嫌っているんじゃないか」などとつまらない勘繰りをしてしまう人がいるゆえの習慣なのだと思うのだけど、そんなリスク回避に奔走しなければならない関係ならひと思いに断ってしまいたいと思ってしまう。

だから、小林秀雄と河上徹太郎のような淡白な関係に憧れる。なかなかそれを理解してくれる人もいないのだけど。

SNSが人を甘酒にする

SNSは人と交流するためのツールである。しかし、下手をすれば、「ツールがあるから人と交流しなければならない」と考えてしまう。ここにSNSの罠がある。道具を使おうと思っていたら、人間が道具に使われてしまうなんて事態になりかねないのである。結果、SNS中毒になったり、SNS疲れを起こしたりする。SNSは人を甘酒にしてしまうのである。

人が集まっていて、自分がそこに発信できるとなれば、何か言いたくなってしまうものだ。だからなのか、過激なオピニオンと、それに対する攻撃が飛び交わない日はない。別にそれが悪いとは言わないが、僕は疲れてしまうからやらない。

意見を見ると何か物申したくなるのもわかるが、所詮自分は権力も権威も持たぬ1億分の1であるから、わざわざ感情を荒げて、人にちょっかいを出してまで何かを主張する労力に見合うほどの何かを獲得したり、世の中にもたらしたりできるとも思えない。だから僕は野心を持たない。野心を持つのは疲れるのである。省エネ人生のほうが楽である。

世界との距離は開くばかり

ただ、僕のこの姿勢は良いことばかりではないなとも考えていて、人生や世界というものに対して距離を取り過ぎているというか、没入することができなくなってきていると感じる。もしかすると、日本が戦争状態に入って核が降ってくるという状況になったとしても、自分は現実味を感じることができないのではないかとさえ思う。果たしてそれがいいのか悪いのかわからないけど、なんとなく罪悪感を覚えてしまう。

でも、僕がこういう態度を取るようになった理由は、「できるだけ感情の起伏を減らしてストレスレスな人生を送りたい」という願望だったから、そういう意味では成功しているとも言える。必死に人生に取り組んでも、世の中から一歩引いて生きていても、それは所詮自分の主観の問題だから、世の中に大した影響はない。だったら自分が楽なほうを選ぼう、と考えている。