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Create Liberty

by inja369

日本人の労働観の変化、その理由について考えてみた

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gendai.ismedia.jp

 

「会社に入り、会社員として稼ぐのが普通」。日本社会においては、こうした労働観が支配的だった。だが、この労働観を拒否したり、疑問を呈する論が少なくない。ここ「はてな」においてはブログを主な収入源とする人たちがそうした主張を唱えていたりする。それに対して賛否両論巻き起こるのが常だが、僕個人の関心はどちらの意見に賛成するかよりも、両論の主張者はどのような考え方を持ち、相手方の何を批判しているのかを理解するために、議論を俯瞰することにある。

まず、両者の主張の根幹にある考え方とはなんなのか、僕なりに考えたことをまとめてみたい。

 

 

「社会人」のイデオロギー

会社で働くことに積極的な人々は、何を「働く意味」としているのだろうか。これは、「社会と繋がる」ことにあるのではないかと思う。

自分の労働力を捧げて他者に奉仕し何らかの価値を与えることで、「自分は社会に貢献している」という誇り、「自分は誰かに必要とされる存在なのだ」という承認欲求の満足に、労働することの幸福を見出しているのだ。この幸福の前には、自分の自由時間だったり、家族との時間だったり、給与額だったりの個人的な利益は、しばしば優先順位が下げられたりする。この価値観は、己が「社会人」であると強く自負している人が持つイデオロギーである。

この価値観を維持する為には、常に「社会との繋がり」を強く感じている必要がある。その為に、集団意識を高めるための様々なシステムが企業には存在する。その一つが飲み会である。プライベートな時間よりも優先して会社の為に時間を使う、そのこと自体に、こうした「社会人のイデオロギー」を強化する機能があるのだ。

こうしたイデオロギーに幸福を感じる人は、社交性が高い人が多い。グループを積極的に作り、外向的な性格で、みんなで労い合ったり馬鹿騒ぎするのが好きな人々。彼らは非常に「他者との絆」を重んじる、情に熱い人々である。情に熱すぎるあまり、社会的な責任を負うことを嫌がったり、集団行動にそぐわない者を見ると、ついつい叱りつけたくなったり、そこまでいかないまでも、あまりいい感情を抱かなかったりするのである。

このような人格が育つためには、幼いころから家族や友達と健全で深い人間関係を築き、人との信頼関係を強く結ぶ経験をする必要があるのではないだろうか。その経験から、幼い時には数人との信頼関係だったものを、成長するにつれて人間社会という範囲にまで拡張させ、「自分を育ててくれた社会や地域に恩返ししたい、貢献したい」「人と繋がって、お互いに助け合い、感謝される仕事をしたい」という意識を育み、意気揚々と社会に飛び出ていくのである。「社会人のイデオロギー」の基礎となっているのは、社会に対する健全な信頼感である。

 

「自由人」のイデオロギー

会社という組織に属さずに働く・稼ぐにもいろんな形態・動機がある。ライターやイラストレーターのような個人の技術でフリーランスとして稼いでいる人々は、おそらくは自分の力・特技を使って仕事をしたいという「自己実現」が根幹にあるのだと思う。彼らは、集団に属するのが苦手だからという理由も一部にはあるのかもしれないが、働くこと自体が嫌なわけではない。だから、彼らについてはここでは問題にしない。

ここで想定したいのは、会社で働くことに対してほとんど、あるいは全くポジティブなイメージを持てない人のことである。自分の時間を犠牲にしてまで働きたくない、会社で消耗して生きるなんて嫌だと考える人々である。

彼らの思想の例として、「好きなこと出来ないサイクル」というものを挙げたい。

 

nikki.kzkz-ozn.com

 

改めて断っておくが、僕はこの考え方に反論したいわけではない。人間が特定の考え方を持つのには理由があるはずである。僕はそれを理解したいだけである。

このサイクルには多くの反響があるのがわかる。全てではないだろうが、ブクマコメントを見ると共感する人の割合がほとんどであることが読みとれる。「社会人のイデオロギー」を持たない・持ちたくない人々がかなりの割合でいるのが事実である。もはや「社会人のイデオロギー」は相当に弱体化していると言っていいだろう。

こうした人々の中には、そもそも「社会人のイデオロギー」のような発想を持つことすら無い人もいるのではないだろうか。「社会貢献」や「責任」「奉仕」「感謝」という言葉を、経営者が労働者を低賃金で働かせる為に振りかざす欺瞞と捉えているのではないだろうか。

なぜそうなったか。理由はいくつかあるだろうが、一つはブラック企業問題があるだろう。景気が落ち込み求人が減ると、就職しにくくなったり、転職を志して退職することを躊躇うようになる。そうすると、待遇が悪くとも働かざるを得ない状況になる。そこに目を付けてブラック企業が台頭するのであるが、ブラック企業はまさに「社会人のイデオロギー」を使って、労働者に待遇の悪さを納得させようとするのである。

こうしたブラック企業の汚い手口のせいで、「社会人のイデオロギー」は、社会人が持つべき労働哲学から、宗教的洗脳文句に成り下がってしまった。TwitterなどのSNSでは、「社会貢献や奉仕、感謝の気持ちなどと熱く語る企業は、まずブラックだと疑え」という言説が飛び交う状況である。若者が労働に対して悲観的になるのも無理はない。

労働に対して失望した若者が別の「生きがい」を探した結果が、「自分のやりたいこと」なのである。だから彼らは、会社に勤めて賃金を得る期間を人生の空白かのごとく捉えるのである。

かつての高度経済成長期の日本だったら、豊かになっていく社会を信用して、労働に対して楽観的になれただろうが、今はそうもいかない。働くことに悲観的になる若者が増えるのは、彼らが人間的にわがままであるとか、根性が無いからではなく、時代的な状況から導き出される必然なのである。

 

労働観の行方

最近では、いずれは多くの仕事をAIがこなすようになり、われわれ人間の仕事は減るか、あるいは労働形態がかなり変わるだろうと言われている。仮にそうなれば、「社会人のイデオロギー」などはすっかり時代遅れになるだろう。それが良いことか悪いことか、議論を繰り広げて自己主張するのは自由だと思うが、それが社会に直接的な影響を与えるとは思えない。価値観を変えるのは状況である。労働観を巡る議論は、遅かれ早かれ時代が決着させるだろう。