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by inja369

「つらいことから逃げるな」の持つ毒

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「つらいことから逃げるな」という言葉は、いかにも人間的成長をもたらしてくれそうな教訓めいていて魅力的に聞こえる。確かに、いろんなことをあっという間に諦めていては、壁にぶつかったときに自分の頭で考えて突破口を見出すという問題解決力は養われず、人生を効果的にすることはできない。

しかしながら、その苦痛に耐える意味がなかったり、諦めてしまって他の手段を採用したほうが良いことが明らかな場合にも、この言葉は唱えられる場合がある。もはや目的を達成する為の手段としての精神論ではなく、「諦めないこと」が目的になってしまっているのである。これでは本末転倒である。それで自尊心が高まる人もいるかもしれないが、そんな人ばかりではないのである。

つらかった少年時代

僕の家庭ではこの言葉が念仏のように繰り返し唱えられ、幼少期の僕はこの言葉を信じていたのだが、年齢を重ねてある程度の分別がついてくると、この言葉はかなりの危険性を帯びていることが理解できるようになった。

私事なのだが、僕は小中学生時代に虐めを受けていた。学校に行くのがつらくなり、そのことを両親に相談したのだが、前述のような言葉が返ってくるばかりであり、親の助けも期待できなくなった僕は、毎朝起きたときから家に辿り着く瞬間まで憂鬱の続く毎日を過ごしたものだった。人格形成期に過酷な人間関係の中に居続けたせいで人間不信になり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を患った。今は回復しているが、当時は本当につらかった。

昔と違う今の社会環境

両親、特に父が「逃げるな主義」だったのだが、なぜそこまで僕を学校に行かせることに固執したかというと、どうも父もまた親に「逃げるな主義」で育てられたようであった。なるほど確かに祖父母もいかにもそんなことを言いそうな人であった。「人間は自分が育てられたように子どもを育てる」という言説もあるが、僕の家庭はまさにそのケースであった。

僕はこれを間違った教育だと全面的に否定するつもりはない。昔のことはあまり知らないが、現在よりも人生の選択肢が少なかったことを想像すれば、甘えたことを言っていられないのが現実だろう。そんな状況ならば、「苦しいことに耐え忍んで生きる」ことを徳だと考えたり、美学を見出したりして自分を納得させるのは立派な生きる知恵だと思う。そうして生き抜いてきた人々には敬意を持っている。

しかし、それはやはり過去の話。今は人生の選択肢が増えた。学校に行けなければ、通信制の学校を使えばいいし、公立校でなくとも、少人数制のクラスを採っている私立校などもある。学校は勉強をする場所なのであるから、勉強できさえすれば「普通の」学校に固執する必要は全く無い。

「つらいことから逃げるな」という言葉の危険性は、こうした選択肢を始めから捨ててしまうことにある。また、新しい環境に居場所を変えることや、新しい選択をすることを、「チャレンジ」ではなく「逃げ」と考えてしまう。こうした考えを、大人が持つならまだしも、自立心の育っていない子どもが持ってしまったらどうだろうか。子どもは、親に反抗して自分の意見を貫き通すといった事ができない。親に認められたいという気持ちゆえに、親の言うことを聞けない自分はダメな人間なのではないかとさえ思うであろう。「逃げるな主義」は子どもから自由な意思を持つことを奪う可能性があるのである。

「逃げるな主義」は一種の「根性論」である。「根性論」は、過酷な人生を生き抜いてきた人々にとっては人生の讃美歌のように聞こえるのだろう、いまだあちこちで手放しにもてはやされている感は否めない。

人情味のある文化が合理的な判断力を奪う

NHKの連続テレビ小説では、ときどき主人公が親を始めとする年長者に「人生の過酷さ」を説かれ、喝を入れられるシーンがある。そこから、主人公は年長者の言葉に感銘を受け、一つ成長をするという物語が展開される。高齢の世代をターゲットにした番組であるから、視聴者が気持ちよくなれるようなストーリーを用意するのは当然であるが、テレビはテレビであり、それが現実に適用できるかはまた別問題なのである。