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by inja369

若者よ、「世間」を捨てよ!

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Twitterでこんな呟きを見かけた。

拡散されている数を見ればわかる通り、この言葉に共感する人は多い。そして、同じような言葉はインターネット上のあらゆる場所で繰り返し唱えられている。

この状況は、日本社会における「世間」の崩壊を示唆している。おそらくこの話者は、「世間」の期待に応えるために懸命に勉強したのであろう。しかし、このような「世間」の期待に応える意味は薄れてきている。かつての日本とは状況が変わったのである。

この呟きが生まれ、拡散されることの背景には何があるのか。「世間」という言葉をキーワードに論じていきたい。

「世間」という曖昧な言葉

「そんなことをしたら世間が許さない」と言われたことがある人は少なくないのではないだろうか。「世間」という言葉は、われわれ日本人にとって強い圧力を感じさせる言葉である。

「世間」という言葉は、21世紀になった現代の日本社会においても、いまだ強い力を維持している。それは場所を変え形を変え、われわれに様々な弊害をもたらしている。

「社会不適合者」という言葉がある。僕はこの言葉は非常に残酷であり、しかも現実に即していないと考えている。そもそも社会とは、さまざまな特性を持っている独立した「個人」の集合体であるが、「社会不適合者」という言葉は、あたかも「社会」が天から与えられたような所与のものであり、「個人」はそれに適応しなければならず、適応できない者は排除されてしかるべきと暗黙に主張するのである。これは、「個人」が持つ特性を無視した非現実的な世界観である。そして、ここでの「社会」とは「世間」と言い替えることができるものである。

このように「世間」の圧力は脅威であるが、しかし、具体的に「世間」とはなんだろうか。その正体を解剖することなく、定義が曖昧なままに怯えている人は少なくない。むしろ、正体がわかりにくいものだからこそ恐怖を感じるのではないだろうか。それはあたかも、伝染病を神の祟りとして認識し、祈りや生贄で解決しようと試みていた前近代の状況のようである。メカニズムがわからなければ適切な対処法はわからない。

「世間」とは何か

先に結論を述べてしまうと、「世間」とは「義理人情を基盤に成り立っている人間関係」である。これは、「契約」や「個人の自由」を基礎とする西洋的な「社会」の概念としばしば対比される。

「世間」とは、農耕社会における強固で濃密な人間関係が生み出した言葉である。生きていくためには共同体の成員が協力していかなければならず、そこには細かなルールが作られ、独立した「個人」の主張が入り込む余地はほとんど無い。そういった密な人間関係の中で作られた、単なる利害関係を超えた感情的な繋がり。それが「世間」である。

「世間」とは何かを考える際に参考になるのは、歴史学者阿部謹也氏の著作である。氏の専門はドイツ中世史であるが、「世間」とは何か (講談社現代新書)日本社会で生きるということ (朝日文庫)などの著作で、日本に存在する「世間」の解剖を試みてきた人物である。

氏は『「世間」とは何か』の中で、「社会」と「個人」という概念はもともと日本には無かったと論じている。

明治十年(1877)ごろに society の訳語として社会という言葉が作られた。そして同十七年ごろに individual の訳語として個人という言葉が定着した。それ以前にはわが国には社会という言葉も個人という言葉も無かったのである。ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。

明治維新以降、日本に西洋式の制度を輸入する際に「社会」や「個人」といった概念が必要となり、これらの言葉はいわば「発明」されたのである。しかし、欧米で用いられているような「個人」を前提にした「社会」の概念は日本には定着せず、相変わらず日本人は「世間」という言葉を使い続けたのである。

その結果、「そんなことをしたら世間が許さない」という言葉を念仏のように唱え、他人の感情を逆なでしないように気を遣いながら生きるスタイルが、未だに亡霊のように生き残っているのである。

人間を幸福にしない日本というシステム

「世間」のもたらす弊害の例を挙げてみよう。「そこをなんとか」「しかたがない」という言葉に焦点を当ててみる。

「そこをなんとか」「しかたがない」といった言葉で、多少の無理が通ってしまうのは日本社会の長所であり短所である。これは、義理人情を基盤とした信頼関係が成り立っている場合であれば問題ないが、これが行き過ぎれば無理を通せば道理が引っ込むという理不尽を振りかざせる環境を作ってしまう。

カレル・ヴァン・ウォルフレンの著作人間を幸福にしない日本というシステム (新潮OH!文庫)は、欧米人の日本社会に対する典型的な見方を表している。

「シカタガナイ」というのは、ある政治的主張の表明だ。おそらくほとんどの日本の人はこんなふうに考えたことはないだろう。しかし、この言葉の使われ方には、確かに重大な政治的意味がある。

シカタガナイという度に、あなたは、あなたが口にしている変革の試みは何であれ全て失敗に終わる、と言っている。つまりあなたは、変革をもたらそうとする試みはいっさい実を結ばないと考えたほうがいいと、他人に勧めている。「この状況は正しくない、しかし受け入れざるを得ない」と思う度に「シカタガナイ」という人は、政治的無力感を社会に広めていることになる。

本当は信じていないのに、信じたふりをしてあるルールに従わねばならない、という時、人はまさにこういう立場に立たされる。

「長いものに巻かれる」という言葉をあなたは本心から信仰しているだろうか。理不尽でありながらも変革不可能な現実として、無力感を感じつつも一つの処世術として受け入れていないだろうか。さらにはその無力感を変形させ、「長いものに巻かれる」ルールを頑なに拒む人を「大人になれていない」と見下して、排除の論理を唱えたり実行したりしていないだろうか。もしそうであるならば、あなたは無意識に「シカタガナイ」と自分に言い聞かせているのである。 

企業という「世間」は既に崩壊を始めている

義理人情に基づく「世間」という共同体は、そこからの脱出を妨げる引力を伴っている。しかし、その「世間」から脱出しようとする若者は少なからず存在する。例えば、「会社」という枠に囚われず、独立した「個人」として生きていこうとする若者である。彼らは今の日本社会の状況を象徴する存在である。

「企業戦士」という言葉をご存じだろうか。高度経済成長期、日本を経済的に支える屋台骨として、自らの身も家庭も顧みず、会社に粉骨砕身して奉仕するサラリーマンの姿を戦場の兵士に例えたものである。

彼らの忠誠心の源泉となったのは、日本は経済的に成長し続けそれに合わせて自分も豊かになれるという楽観的な未来像と、終身雇用制度による会社への信頼、年功序列制度による昇給の確信であるが、バブル崩壊以後の経済的停滞はそうした信仰を破壊した。

そんな状況の中では、新卒から定年まで一つの会社で働き続けることに疑問や不安を持つ若者が増えるのは至極当然のことなのである。もはや彼らの忠誠心を買うに足るだけの価値を企業は持っていないのだから。

だから、「会社で働くことに魅力を感じない」「一つの会社に留まっているのは嫌だ」と思ったとしても、決して「社会不適合者」ではないのである。むしろ、日本社会を俯瞰し、冷静に危機を見据えられる観察眼を備えていると言っていいだろう。未だに「世間」を妄信し、そこからの脱出を「裏切り行為」と断罪する人はいるが、そういった言葉に怯える必要は全く無いのである。 

若者よ、「世間」を捨てよ!

もはや「世間」の圧力と求心力は失われつつある。インターネットの普及によって、様々な生き様が「見える化」される環境になったことによって、その流れは加速しているように思える。

ibaya.hatenablog.com

www.jimpei.net

pha.hateblo.jp

僕が購読している中で特に注目している3名のブログを挙げさせていただいた。

もはやここまで生き方が多様化した現実の中で「社会不適合者」などという言葉は死語である、と断言するのは言い過ぎだろうか。しかし、彼らは生きている。この世に正解の生き方など無い。生き方が無数にあるだけである。彼らはその中でも少数派なだけで、間違っているわけではない。

生き方を選ぶのは、他でもない自分である。